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長野地方裁判所 昭和43年(ワ)182号 判決 1973年3月13日

原告 弓田大太郎ほか六八名選定当事者 弓田大太郎

右訴訟代理人弁護士 丸山衛

同 富森啓児

同 岩崎功

同 太田実

右訴訟復代理人弁護士 三浦敬明

被告 村石波三郎ほか五〇六名選定当事者 青木源之助

<ほか九名>

右一〇名訴訟代理人弁護士 宮下勇

同 川上真足

被告 林利七ほか九名選定当事者 山岸勇

被告 一色利雄

<ほか一名>

主文

被告らは、別紙選定者目録(一)記載の原告関係選定者らが別紙物件目録記載の土地に対し、入会権を有することを確認する。

訴訟費用は、被告青木源之助、同原山薫、同山岸新次、同山際剛、同北村隆治、同神田文雄、同近藤堯、同西沢淳、同山岸マサゴ、同山岸勇司の負担とする。

事実

第一  当事者双方の申立て

原告訴訟代理人は、主文第一項同旨の判決を求め、被告青木源之助ほか九名訴訟代理人は「原告らの請求を棄却する。」との判決を求めた。

第二  原告の法律上および事実上の主張

一、(入会山)

(一)  別紙財産目録記載の土地のうち、本件一ないし五土地(以下、「本件入会山」という。)は、徳川時代から、これを含む約二、七七〇町余の山林とともに、旧井上村(現在須坂市)井上、幸高、九反田、中島、福島の五部落、旧仁礼村(現在須坂市)仁礼、仙仁、栃倉の三部落、旧高甫村(現在須坂市)八丁部落、旧日野村(現在須坂市)高梨部落、旧綿内村(現在長野市)綿内部落、以上一一(行政区画としての村、大字、字ではなく経済的共同体であり、所謂実在的総合人である)の部落住民の共有する入会山であったが、その後、明治三八年三月一〇日高梨部落が、同三九年一〇月三〇日綿内部落が、同四二年二月二六日福島部落が、それぞれその持分を仁礼、仙仁、栃倉の各部落に譲渡したので、明治末年には井上村四部落、仁礼村三部落、高甫村一部落、以上八部落住民の共有する入会山となった。

ついで、大正一四年に右八部落間で右全入会山が分割され、本件入会山は井上村四部落住民の共有となり、登記簿上は井上村大字井上、大字幸高、大字九反田、大字中島の共有地として登記された。

(二)  本件六ないし二三の土地は、昭和八年九月二二日、本件入会山の管理権および毛上の管理処分権を有する井上村四部落山林管理委員(坂本重雄ほか九名)が、本件入会山の毛上の収益を対価に、本件入会山の権利者全員のために訴外柄沢五一郎・同柄沢利一から買い受けたもので、入会地の交換、入会地からの収益の配分に準じ、入会山として、本件入会山同様、その土地とその毛上は入会権者全員に帰属する。このことは、共有山林管理規程第一、二条、第四条によっても明白である。

(三)  井上村四部落の住民は古くからの入会慣行に従い、部落の住民である限りは何人も入会権者として、前記入会山に、ついで、大正一四年以降は本件入会山に自由に入会うことができ、その毛上に対する収益権能を有していたのである。

ただ、右収益権の態様は歴史的に次のような変遷をたどった。すなわち、大正一四年の分割までは四部落住民であれば、誰でも自由に全入会山に入り会い、主として薪炭、雑草等を採取する権利が認められていたが、右分割後は、いわゆる留山となり、入会権の行使が規制されるとともに、薪炭、雑草の採取という面よりも立木自体の価値に着目され、昭和四年一二月一日井上村四部落住民間において、本件入会山から生ずる立木の売却等による収益の分配基準として、全収益の一〇分の三は四部落住民に等分し、一〇分の七は井上二一〇、幸高四九、九反田四〇、中島八五の比率で各部落住民に配分するとの協定が成立し、爾後各部落住民は右の収益配分基準によって、本件入会山より生ずる収益の配分を受けることになった。

(四)  本件入会山は、鮎川の上流に位置し、井上村四部落の住民にとっては、本件入会山を確保することが、右鮎川のはん濫を防止するという治山、治水上の見地からも、また、湧水、農業用水を確保するという水利上の見地からも不可欠のものであった。すなわち、井上村四部落の北側を流れる鮎川は、その源を本件入会山に発し、仙仁、仁礼、栃倉の東村三部落、ついで、須坂市の八丁部落を流れ、更に井上、幸高、九反田、中島を経て百々川と合流し千曲川に流れ込んでいる。井上、幸高部落は鮎川の扇状地に集落を形成し、扇状地の先端では地下水が多量にゆう出し、住民はこれを飲料水、農業用水等に利用してきた。九反田部落は主に鮎川の旧堤防上、又はその南に集落を形成し、中島部落は、鮎川の最下流の南側に集落を形成している。鮎川は九反田地籍から完全な天井川となっている。以上のように、本件入会山はその毛上に対する具体的収益権と併せて、鮎川との関係から、治水、水利権確保という観点においても井上村四部落住民とは切り離し難い関係にあった。

二、(入会権者)

(一)  本件各土地(別紙財産目録一ないし二三)に対する入会権取得の要件は、慣習上、(1)、井上村大字井上、大字幸高、大字九反田、大字中島地籍に引き続き満三年以上居住し、右地籍内にある数部落のいずれかに所属していること、(2)、世帯主として独立した一個の世帯を代表するものであること、にあるとされ、したがって、個々の権利者の権利の発生は、相続によると、転入によると、事実上分家による世帯の独立、入りむこ、隠居等の世帯主の交替によるとを問わず、以上の要件をみたす者には全て認められ、前記部落より他に転出したことによりその権利を喪失するとされてきた。また、本件入会山に対する入会権は、前記数部落共同の経済協同体とその構成員たる住民全員がこれを総有し、持分の定めはなく、持分の譲渡、入会山の分割請求権や処分権なども認められていなかった。なお、入会権の行使にあたっては、野火に注意し、木の芽の吹く八十八夜には山に入らない、山で取ったものはその日のうちに持ち出し、山に留めおかないという慣習上の制約があった。

(二)  原告ら(原告弓田大太郎の選定者らをいう。以下同じ。)はいずれも先祖代々旧井上村井上ならびに幸高の両部落に居住し、経済的協同体である右二部落の住民として、他の住民と同様に入会権を有する。その取得の原因とその取得の時期は別紙入会権利者目録(1)、(2)、(3)、(4)欄記載のとおりである。

なお、原告らが本件土地の入会権者として、他の住民と同様に収益の権能を有していたことは、次の事実によっても明らかである。すなわち、原告らの住民は古来から旧井上村井上ならびに幸高の地籍内にあり、現在地籍上も戸籍上も須坂市大字井上あるいは大字幸高と表示されているほか、歴史的にも明治四四年に井上村四部落住民三八四名が原告となり、高甫村、仁礼村の二部落を被告として、長野地方裁判所に対し、入会権確認ならびに妨害排除の訴えを提起した際、原告らの先代が原告となって訴訟に参加し、大正一四年に八部落住民間で全入会山が分割され、本件入会山が井上四部落住民の共有となった時にも原告あるいはその先代が入会権者として入会山に関する分割協定の同意書に署名押印している。これらの関係は別表入会権者目録(5)、(6)欄記載のとおりである。

(三)  もっとも、原告らの居住する旧井上村井上ならびに幸高は、行政区画の上では次のような変遷をたどったが、これは、その時々の一定の政治的あるいは行政的、社会的必要に基づいて制定せられたものにすぎず、本件土地の入会権の基礎をなす経済的協同体としての井上村四部落とは関わりないものであり、入会権の帰属そのものには何らの消長を及ぼすものではない。すなわち、明治五年の区制では井上村、高甫村、仁礼村とともに第三九区に編入され、明治七年の大小区制の実施に伴い、第一七大区の内、井上、幸高は福島、中島と共に第四十区となり、明治一二年に郡村制が実施されると井上、幸高はそれぞれの戸長を有するに至ったが、明治一八年の総合戸長役場制の実施により、井上村ほか六か村(井上、福島、中島、九反田、米持、幸高、八丁)は戸長役場を井上に統合するに至り、明治二二年四月町村制の実施により、井上村ほか六か村は一村に統一されて井上、福島、中島、九反田、幸高、米持の順に各部落を一区として、一区より六区までの行政区が設けられ、その後、大正一一年、井上部落と幸高部落に居住するいわゆる部落民と呼ばれる人々のみによって、住居の地理的分布に関わりなく、人為的に新たに二睦という行政区が設けられて井上村の第七区となり、昭和三〇年一月一日井上村四部落は全て須坂市に編入されて現在に至っている。

三、(確認の利益)

被告らは、次に述べるように、原告らの入会権を争っている。すなわち、昭和四一年七月ころ本件入会山の立木の処分代金が入会権者に配分された際、原告らには配分されず、また、昭和四三年三月の四部落住民による入会権総会には、原告らは入会権者として参加することを拒否され、更に、右入会権総会において採択された共有山林管理規程第四条には本件土地は井上区、幸高区、九反田区、中島区の総有財産であると規定され、右管理規程の上からも原告らの入会権を否定している。

すでに述べたように、二睦の誕生は、本来井上村四部落住民の総有する入会権の帰属とは関わりのないものであり、原告らが二睦なる区に属する故をもってなされた本件入会権の否認は、大正一一年に行なわれた社会的差別に藉口して、原告らがいわゆる部落民である故に社会的経済的差別を改めて行なう以外の何ものでもない。これは憲法第一四条にてい触することは明らかであって、今日かかる公然たる社会的差別が現に行なわれていることに対し、原告らは耐えがたい屈辱を覚える。

四、(結論)

よって、原告らは、被告らに対し、本件各土地につき原告らが入会権を有することの確認を求める。もっとも、被告ら全員が原告らの入会権を争っているものではないが、本件は訴訟法上いわゆる必要的共同訴訟として提起すべき場合に該当するので、やむなく被告ら全員を相手とし、本訴請求に及ぶ次第である。

五、(被告らの主張に対する反論)

(一)  被告らは、原告らが江戸時代から今日まで被告らのいう実在的綜合人に属したことがなく、したがって、本件入会山の権利者ではなかったと主張するが、原告らの先祖が当地に居住するようになったのは、慶長二年(西歴一六〇二年)からで当時の土地台帳にも原告らの土地私有の事実が記載されているし、原告らは既に古い時代から自らの家屋敷、農地等の私有が認められ、独立の農民として生計を立てていたもので、本来営農上不可欠な権利である入会権について、原告らのみが除外されるという事実は歴史的にも存在しない。

原告らの先代が主として野庄または七三河原と呼ばれる地籍に居住していたことは被告ら主張のとおりであるが、これは大字井上、大字幸高の各地籍がそれぞれの小字を単位として、組と称する住民組織が成り立っていたことによるものであって、野庄または七三河原と呼ばれる大字井上、大字幸高に対置せられるような特別な地域が存在していたわけでもなければ、野庄組、七三河原組という特別の組が井上四部落のほかに存在していたわけでもない。そして、野庄または七三河原と呼ばれる小字内に主として未解放部落民と呼ばれる人達が住んでいたため、部落民べっ視のために、差別的措置が野庄、七三河原に居住する原告らの先代に対してとられていたのである。被告らの主張する祭礼や稲の盗難防止の組織の結成、消防等における差別的取扱いこそ、原告らに対する社会的差別の具体的あらわれであり、区費についても、例えその徴収がある時期になされなかったとしても、それは原告らを身分上も、社会上も差別し、その差別を合理化、正当化するために意識的になされたにすぎない。すなわち、区費を免除するかわりに消防や衛生などの上でも差別するという措置がとられたのである。原告らはこのような社会的差別からの解放を願い、大正一一年に二睦なる独立の区を作り、他の住民と対等に消防、衛生等の権利を得ることができたのである。

以上のように社会生活上での種々の差別的取扱いがあったことは事実であるが、こと入会権に関しては、原告らには既にのべたように他の住民と全く対等な権利が認められてきたのである。

(二)  被告らは、入会権は土地を所有し、これを農耕する百姓の固有の権利として発展したものであり、他の職業の者は、武士、医師、商人等身分の如何を問わず、入会権者となることはなく、原告らは先祖が百姓ではなく主として、皮細工等の仕事に従事していたものの子孫であって、本件入会権者ではなかったと主張する。

入会権は、士、農、工、商、えた、非人という階級的、身分上の権利であるという主張は、入会権に関する異説であり、身分的差別的入会権論というほかないものである。これらの主張は入会権そのものに対する無理解に根ざすのみならず、当地における入会慣行の実態、とりわけ原告とその先代が入会権を現に認められてきたという事実を無視するものである。かかる主張は被告らの未解放部落民に対する偏見と差別意識を露わにするものである。

原告らならびにその祖先は皮細工の製造販売に携わった事実はなく、原告らの祖先が農業に従事していたことは証拠上も明らかなことである。

ところで、民法上、入会権については各地方の慣習に従うと規定されているのみで、その要件、権利内容についてはほとんど触れられていない。それはとりもなおさず入会権が各地方の慣習によって専らその実態に即しては握するほかはないほど複雑多岐にわたり、抽象的、画一的には到底構成しえないものであることを物語っているが、末弘厳太郎著「物権法」によれば、「農村の富豪は耕すべき田畑を有すると同時に、薪炭を採り秣草を刈るべき山林原野をも私有している。自家の諸用は此等の田畑山林原野の収穫物を以て充分に之をみたすことが出来る。所が、僅かに一家を支えうるに足るべき耕地を有するに過ぎない小地主、他人の土地を借りて耕作に従事している小作人等、農民の大多数は耕作に使用する以外何等余分の土地を有せざるを通例とする。彼等は、炊事用の薪炭、屋根を葺き、田を培い家畜を飼うべき秣草類其他農民日常生活の必需品を自己の所有地から採取することができない。しかも貧困な彼等が金銭を以てそれを買うことの出来ないのは明らかである。然らば彼等は何所にそれを得べきであろうか。彼等が権利なしに濫らに富豪の山林原野を犯し得ざるは素よりである。田舎に行ってみると、到る所に入会地、立会山、入付場、入稼場、稼山、請山、野山、差図山などと謂はれている土地がある。村民は、或は時を定め、或は随時に、其土地に来って木を伐り草を刈る。そうして自家の雑用に充てる。彼等一人々々が其土地から得る所の収益額は、絶対的に見れば極めて僅少なものであろう。けれども、それは彼等の生活必需品である。貧困な彼等は、それなしには生活することが出来ないのである。従って此程の収益を為し得る権利の存否は、彼等にとっては生計上の大問題である。これから説明しようとする入会権は、こと実に此重要なる権利に関するのである。」(末弘厳太郎「物権法」六六六頁)とされ、「農民の細民」にとって「入会地の採取物」は「生活の必需品」であり、入会権は農村の細民に解放せられ、経済的に恵まれない人々が自由に山野に分け入ってその生計の資を確保する権利であったとされている。通常、入会権の対象となる入会地の採取物としては、しば草、薪炭、肥草、かや、材木、くりの実、しいの実、農具家屋材、薬種、くず、わらび、竹、よし等きわめて多種多様のものが存在し、そのうち、肥草、農具材等農業経営と切り離しがたいものがあることはもちろんであるが、薪炭をはじめ直接農業に従事すると否とにかかわらず、細民であればある程生活上欠くことのできないものが数多く含まれている。封建制社会では経済的に農民階層が最も圧迫されていたことと相まって、入会権が武士や商人、職人にではなく、農民にとって不可欠、不可分であったという主張は、農民を武士や商人と対比する限りにおいては正当であるが、それ故に入会権が農民のみの排他的権利であったとか、入会権が農民という身分に附随して与えられた権利であると言うことにはなり得ない。都市に居住している場合はともかく、農村に居住していたえた・非人と呼ばれる人々は、その社会的身分においても、経済生活の上でも農民よりも更に一層虐げられ、困窮をきわめていたのであって、彼等こそは農村の細民の最たるものであった。入会権発生の歴史的沿革からして、農民と等しく農村における細民であった未解放部落民がその「生活必需品」を入会地から採取することを妨げられ、あるいは制約されるいかなる合理的根拠も存在しないのである。ただ入会地が狭あいで採取物も限られているとか、利用者の増加に伴って権利者を制限せざるを得ない場合などには慣習上種々の資格制限が行われ、中には未解放部落民が不当に除外されるという事例も存在したと思われる。これら入会権者の資格制限は入会地の立地条件やその利用状況等に左右され、決して画一的、一般的には論じえないところである。

本件入会山は、井上四部落から八キロメートル以上も遠隔の地にあり、利用度は低いにかかわらず、面積は広大で資源は豊かであり、格別入会権者の資格制限を行うべき理由は見出し難いのである。また、事実、本件入会権利者については、特別の制限、条件はなく、誰れでも自由に山野に分け入ることができるとされて来たのである。未解放部落民が入会権利者から除外されていたとか、かれらのみが入会権の行使の上で四部落の外にあったという主張は客観的にも全く根拠のないものである。

(三)  原告らが所属している二睦区は大正一一年に大字井上および大字幸高に住むいわゆる部落民と呼ばれる人々のみによって住居の地理的分布に関わりなく人為的に設けられたにすぎず、二睦区が他の区と別部落を構成しているのではなく、こん然一体をなしているのである。井上区、幸高区(以上被告ら)と二睦区はその生活の基礎も同一ないし共通である。すなわち、先にも述べたように、水についてみるに、井上村四部落の北側を流れる鮎川は本件土地に源を発し、明徳山の北すそを洗うように流れ、千曲川に注ぐ手前で扇状地を形成し、その扇状地に井上、幸高の二部落が集落を形成し、九反田部落は鮎川の旧堤防上とその南に、中島部落は鮎川の下流の南に集落を形成しており、鮎川は九反田地籍から天井川となっている。井上、幸高部落の中を流れる用水は鮎川から取り入れられており、水道が引かれる前はこれを飲料水、台所用水として使用して来たし、現在は農業用水としても使用されている。前記明徳山の西端あたりから鮎川が山すそを離れて扇状地を構成しているのであるが、そのあたりに鮎川とほぼ平行してせき堤が三本構築されており、このせき堤によって、井上、幸高部落が洪水から免れて来たのである。

このようにして水に関しては井上、幸高地籍に住む住民はみな同一の恩恵に浴している。

次に墓地についてみるに、大字井上に住む原告ら、被告らの墓地は浄運寺の同一区画地にあり、大字幸高に住む原告、被告らの墓地は鮎川堤防附近の同一区画地にあって、原告らのため別の墓地があるわけではない。

また祭については、原告らのうち大字井上に住む者は、小坂神社の一〇月九日、一〇日の祭を被告らと一緒に行ってきたし、大字幸高に住む原告らは、幸高の祭に参加しているのである。

このようにして現実に本件土地に入り会った当時の大字井上、幸高に居住していた原告、被告らの先祖は、大字ごと一つの生活協同体を構成していたことは明らかである。たまたま入会権の内容が変遷したことに伴い、被告ら出身の管理委員(部落の有力者達である)が植林などして自から管理して数十年経た事実をとらえ、旧来の慣習を調査することなく、被告らのみに入会権があると錯覚したと善解したいのであるが、実際は、一部有力者の部落民に対する差別意識にまどわされて、被告らは昭和四三年三月入会権者総会において原告らを排除したのである。

(四)  また、被告らの主張は、入会権というものに対する誤った理解から出発しているというべきである。入会権は、中世ゲルマン法にみられるゲヴェーレあるいは「所持」の構造を有し、抽象的、観念的ではなく、具体的支配を内容とし、その具体的支配の事実と不可分に結合しているところに権利としての最大の特徴を有するものである。事実と慣習に基礎をおく以上は、もっとも原始的かつ当初は意識されざる権利として実在し、次第に他人に対する排他的対抗関係を通じて形成され、ついには国家権力の価値判断に媒介されて、法律上の権利として確立されて来るのである。

したがって、まず、権利の主体を明らかにし、それと客体との関係において権利関係を構成する近代的所有権の法理とは全く相容れない、あるいは相反する権利といわなければならない。すなわち、権利の主体たる部落協同体がまず存在し、これとの関係において入会権や水利権なるものが発生するものではない。何よりも山や水の共同利用という事実が存在してこそ、一定の自然的地理的じん帯のもとに、山や水の共同利用という事実を通しての一個の生活協同体が構成されてくるのである。「一個の生活協同体を構成するところの実質的根拠」が「水と入会の関係である」といわれるのは、まさしく右の意味においてである。農村においては、ある特定の山、同じ水系を中心に「共同の利害と責任の意識とに基づく連帯性に支えられた一個の生活協同体」としての村落が形成されてきたのである。山、水こそは最も基本的な生活の基盤となるものである。井上四部落の中に分ち難く混在し、山や水の共同利用というもっとも基本的な生活基盤を一にしている原告らのみを入会権の主体から除外することは本来あり得ないことである。

また、入会権の主体となる協同体が行政区画や行政単位と必らずしも同一でないことは当事者間に争いのないところ、被告らは行政上の区画や単位という問題とは別に、社会制度の違いという問題を入会権の基本的な前提として新たに持ち出してきた。すなわち、社会制度の違いが生活の基礎の違いとなり、入会権の主体としての生活協同体の違いとなるというのである。ここに被告らの立論の誤りがある。本来、社会制度と入会権は一体何の関係があるのであろうか。名主、組頭、五人組制度やえた非人制度はいずれも徳川幕府の統治する江戸時代において確立されたものであって、例えば五人組制度は隠し田の摘発などを目的に、住民監視の制度として創設されたものであり、士農工商えた非人の身分制度は、人民の分断統治によって長期にわたる幕藩体制を維持するために考案されたものである。時の支配者の政治的行政的必要に基づいて生み出されたかかる社会制度は、入会権や水利権の発生過程と全く別の次元に属することは明らかであって、行政上の区画が時の支配者の政治的あるいは行政的必要に基づいてどのような変遷をたどろうとも、それによって入会権の主体である生活協同体に消長を来たすものでないのと同様、社会制度の変遷によって入会権者が変動するものではない。入会権や水利権が、徳川時代に確立された社会制度より、はるかにさかのぼる原始的な権利であることもいうまでもない。

(五)  山林原野の慣行に基づく使用収益権を内容とする入会権は時代の変遷に伴い、とりわけ近来その管理の形態や使用収益の態様において大きく変動しつつあることは否定し得ないところである。民法制定以前の入会慣行のみをもってすべての入会関係を律しようとすれば、到底実情にそわないのが今日の入会権の実態である。数村持入会地の分割や交換、分村に伴う新しい入会関係の設定、農業協同組合や財団法人、財産区等への管理処分権の移譲、薪や芝草を採取する古典的な収益の形態から、植林等による立木売却代金の配分を主要な収益の形態に変化するなど、その内容はきわめて多彩であり、一定の慣習が入会関係の主要な要素であるからと言って、その慣習の内容を民法制定前と後に画然と区別する実質的根拠は何ら存在しない。慣習そのものが歴史的にみて、決して固定し硬直したものでないから、要は従来の入会慣行を基調にして、時代の変遷に伴う管理収益の形態の発展をも入会慣行の中に包含して行かないかぎり、今日の入会権の合目的的把握は到底不可能である。先に述べたように、これを本件入会山について言えば、大正一三年に入会山の分割整理に着手した時期までは薪、芝草の採取を中心とする古典的な収益形態がとられ、原告らを含む四部落住民全員が直接に収益権を有し、かせぎ高に制限なく自由に入会って来た。もっとも各住民に持分の定めはなく、したがって、持分の譲渡、入会山の分割請求権、処分権等もなかった。

大正一三年から昭和四年までの間、入会山の分割とその細目についての協議や実測のために従来の入会山に対する収益権の行使は規制されるに至った。

昭和四年一二月一日の井上村四部落持分協定書の成立により、本件入会山の収益権の主たる内容は、峯の原の村名義による官行造林の施行をはじめ、立木の伐採代金、植林事業等による立木代金の配分という方向に移行して行った。そして、この時、入会山の一〇分の三は四部落に等分し、一〇分の七は井上二一〇、幸高四九、九反田四〇、中島八五の割合で配分するという比率が定められたことも先にのべたとおりである。

第二次世界大戦後、山林の管理を独占して来た山林管理委員が立木を勝手に処分しているのではないかとの疑惑が持たれ、昭和二五、六年ごろからいわゆる新旧管理委員の地位争いが激化し、訴訟に発展したため、多額の費用が必要になったり、また、抗争中であるという理由から収益の配分は見送られてきた。

昭和八年に柄沢五一郎らから新たな土地を購入したことも、昭和四三年に本件土地の一部について財産区を設定したことも、本件入会山の管理の一環として行われたもので、従前の入会慣行、入会権者の収益の内容に差異を生ずるものではない。

第三  被告青木源之助ほか九名の法律上および事実上の主張

一、請求原因に対する答弁

(一)  (入会山)

請求原因一項の(一)の事実中、本件入会山が原告ら主張の経過をたどって井上村四部落(もっとも、行政区画である井上村、幸高村、九反田村、中島村又は大字井上、同幸高、同九反田、同中島に居住するすべての人でなく、のちに述べる実在的総合人としての経済的協同体に属する人で構成されたもの)の入会山であったことは認めるが、その余の事実は否認する。本件入会山については、現在、入会慣行は廃止されている。

同一項の(二)の事実中、本件六ないし二三土地が、原告主張の日時に原告主張の管理委員により訴外柄沢五一郎外一名から購入されたことは認めるがその余の事実は否認する。右土地について現在まで入会が行われたことはない。

同一項の(三)の事実中、昭和四年一二月一日原告主張の収益配分率が定められたことは認めるが、その余の事実は否認する。

同一項の(四)の事実は争う。もともと、水利権と入会権は別個の権利関係であり、別な思想として発展してきたもので、原告主張の理由によって鮎川流域住民が広く入会権を有するものではなく、むしろ、入会山は治山、治水を妨げる権利関係にあったことは公知の事実である。

(二)  (入会権者について)

請求原因二項の(一)の事実は否認する。入会権取得の要件は、のちに詳述するように、慣習上井上村の井上、幸高、九反田、中島の各区の地籍にそれぞれに引き続き三年以上居住し、かつ、区の課する区費(協議費とも言う)、夫役を三か年以上果した世帯主に認められていたもので、分家や転入に当っては、先ず五人組に入り、これが各組の組長に届出され、更に区長に届出されて部落住民となり、前記義務を果すと権利者となるとされ、喪失については、部落を出ると権利を失うこととなっていた。なお、現在、収益の配分を受ける権利者も右と同様である。

同二項の(二)の事実中、原告らが先祖代々旧井上村および幸高の両部落に居住していること、原告主張の民事事件提起に際し、原告主張の者が右訴訟の原告となったこと、原告主張の全入会山分割の際、原告主張の者が右分割協定の同意書に署名押印していることおよび原告らの相続関係がその主張のとおりであることは認めるが、原告らが、入会権者であることは争う。なお、のちに詳述するように、原告らの先代が原告主張の民事訴訟に原告として参加したのは、右訴訟の原告の数を合わせるためであって、入会権が存したからではなく、また、分割の同意書の署名押印についても、当時、右分割を指導した県の職員の入会権の実態に対する無理解から、全村民の同意書を取った結果にすぎず、いずれも、原告らの先代が権利者であったがためではない。

同二項の(三)の事実中、原告主張の行政区画上の変遷の事実は認めるが、その余は争う。

(三)  (確認の利益について)

請求原因三項の事実中、被告らが原告らの入会権を争い、原告らに原告主張の立木処分代金を配分せず、また、入会権者総会への参加を拒否し、原告主張の管理規定を採択したことは認めるが、被告らが、原告らが二睦なる区に属する故にその入会権を争っているとの主張は否認する。被告らは、のちに詳述するように、本件入会権は、実在的総合人または経済的協同体としての井上部落、幸高部落に属する人が古い時代から自然に成立した権利として取得しもので、原告らは右協同体に属していなかったというのである。もっとも、原告らが、右協同体から除外された原因が、江戸時代の政治形態を維持するための身分・職業に対する差別に基づくものであることは否定し難く、この点を歎ずる気持は理解できるが、右の結果、現在において原告らに属さない権利をそのまま争ったからといって、被告らが原告らを差別していることにはならないし、また、井上、幸高部落において、本件入会権を含む何らの差別が行われたことはないのである。

(四)  (結論)

請求原因四項は争う。

二、主張

(一)  (入会山)

(1) 本件入会山は、これを含む二七七〇町歩余の土地とともに、江戸時代から井上、幸高、九反田、中島部落を含む一一部落の入会山であったが、明治七年ころ官有地に編入され、その後、各部落が税金を支払っていた証拠が出されたことから、明治一六年民有地に組替えになった。ところで、一旦官有地に編入され、その後、従来の慣行が廃止されないまま民有地に組替えになった場合は、従来の権利が消滅しないもので入会権も消滅しなかったのである。

しかして大正一四年一二月八日、当時の権利者であった八部落(高梨部落は明治三八年三月一〇日、綿内部落は同三九年一〇月三〇日、福島部落は同四二年二月二六日に各譲渡)間で入会山が分割され、本件入会山が井上四部落に帰属することになった。右分割は、いわゆる数村入会という最も山を荒廃さす入会であったので内務省が全国的に行なった行政指導の一環として、長野県の指導によったもので、分割に当っては入会慣行を廃し、近代的な方法による管理を行なうことが約定された。その後、本件入会山のうち、本件一、二の土地は昭和四年一〇月一六日井上村に寄附され、昭和六年四月一八日農林省のため、地上権が設定され、昭和三〇年一月一日から須坂市井上、幸高、九反田、中島財産区の財産となった。本件六ないし二三の土地については昭和八年九月二二日、前述のように当時の管理委員が訴外人から買い受けたものである。

(2) 管理については、前記大正一四年の分割後、四部落の間で協議され、各部落から選出された委員(井上部落四名、その他の部落各二名)によって構成される山林管理委員会が管理して、各部落ごとに区域と日時を指定して山林の伐採を許可し、官行造林を行う土地、直接委員会が植林を行う土地、雑林のままにしておく土地等に分ち、あるいは薪炭を分配し、道路、橋の整備等を行い、かつ、各部落の分配率を定めていたが、現在、本件一、二の土地については須坂市長が市議会の同意を得て選任する委員により、本件三ないし二三の土地は右四部落から選出された委員により組織される委員会により管理されている。

(3) ところで、本件六ないし二三の土地が、もともと入会山でないことは、前述のとおりであるが、本件入会山についても、前記分割の当時から入会慣行が廃止されているのみならず、昭和四三年三月制定された井上区ほか三区共有山林規定により、入会慣行は解体もしくは消滅し、近代的管理形態たる所有権ないし共有権行使に転化している。したがって、本件各土地は、いずれも現在入会山ではない。

(二)  入会権者

(1) 本件入会権は、江戸時代から存在したいわゆる実在的総合人または経済的協同体としての井上部落、幸高部落に属するものである。原告らは、右協同体と別個の経済的協同体を構成していたもので、明治以後行政区画の変遷により、井上村井上区として分類された行政区画上の地籍に属したとしても、右実在的総合人としての井上部落、幸高部落に属したものではないから、本件入会権者となることはない。すなわち、

明治政府は従来の部落と異なった公法人としての区画制度を極力推進したもので、公法人としての井上、幸高には旧来井上部落とされたものが幸高村幸高区に編入され、また、幸高部落とされたもので井上村井上区に編入されたものもあり、従来の井上、幸高部落即実在的総合人としての井上、幸高部落はこれら公法人と関係なく存在したものである。明治五年四月一〇日大政官達第一一九号には「村内分界あれば廃し、一牧一村とするべく取扱うこと」、明治六年一二月二五日大蔵省達第一八六号には「一村内分界は合併し一に致し、独立村落も戸口の少なるは合併すること」となっている。原告らは明治政府が綿密に区分再編成した地方行政の結果、井上村井上区、または幸高村幸高に所属するに至ったもので、入会権者の範囲を定める単位である実在的総合人または経済協同体としての井上幸高部落に属したことはない。

(2) 行政単位としての村と生活協同体としての村との相異ならびに本件原告らと被告らとの関係について。

原告らは井上村大字井上、同大字幸高の地籍に居住することにより入会権を取得したというが、行政単位しての大字井上大字幸高に居住することにより入会権者となることはない。入会権は明治以前から存在する権利であり、本件入会権も同様である。徳川時代から、村は、行政単位としての人格とともに生活協同体としての機能を有していたものでこの行政単位としての村と、生活協同体としての村は、一村が二領主に属する等の場合には異なることが明確であったが、原則として一致していたものである。ところで、村持の入会権というときに入会権の主体となる実在的総合人または経済協同体といわれるものは右の生活協同体としての村である。一方、明治初年以来、町村制の変革が行なわれたが、これは右の行政単位としての村の変革であり、入会権の変動を伴うものではない。行政単位としての村、大字に原被告らが共に居住することになったからといって共に入会権者となるものではない。

ところで、被告らの井上部落、幸高部落は古い時代の五人組制度から発展した組よりなり、現在井上は一二組、幸高は三組にわかれている。各組に所属する者は別紙当事者目録記載のとおりである。しかして本件入会権の主体となる四部落のうち井上部落、幸高部落とは右井上一二組、幸高三組の二個の団体をいうので、役員の選出、分配の割合、その他すべてこの単位を基準としているのである。ところで行政単位としての大字は右の組と関係がなく定められたので、右にいう井上部落の住民でありながら、大字幸高地籍に居住することになる者一八軒、幸高部落の住民でありながら大字井上地籍に居住することになる者二七軒がある。

右の事実を各部落について詳述すれば、井上部落においては古くは惣代、現在は区長一名がいて、その下に区長代理、土木係、衛生係、神社係一名よりなる四名の当役があり、現在の選出方法は毎年組長の会議により候補者を出し、住民投票により選出し、これが部落の執行機関となっている。しかして、一二組には各組長が居て部落の運営についての協議に参加している。幸高部落においては区長、区長代理、土木員各一名があり、区総会で選出し、三個の組に各部落会長が居て、右六名を当役と称し、部落の運営に当っている。ところで、各部落の運営のための費用は区費または協議費と呼ばれ、井上部落においてはその所属する一二組の住民、幸高においては同じく三組の住民から徴収され、本件入会山の税金はこの区費、協議費から支出されている。また祭礼、消防、衛生等はすべて右の組をもって組織される部落単位になされている。

原告らは大字井上の野庄、大字幸高の七三河原に居住していたものであり、大正一一年に二睦区を成立させたが、それ以前においても以後においても被告らは井上一二組、または幸高三組の組に属したことはなく、井上または幸高の区費、協議費を支払ったこともない。また本件山林の税金を負担したこともない。野庄、七三河原には組長があり、区費は別に徴収使用され、またそれぞれ別な神社の氏子であり、祭礼も共にせず、その他稲の盗難防止の組織結成、消防、衛生等全く共同に行なったこともない。

また、明治初年ごろ、原告らの部落では被告らの部落を「本村」と呼んでいたようである。これは古くからの別個の団体性を表現しているものと思われる。もちろん、封建時代における秩序の維持のため、施政者が人民の職業の変更を許さず、結婚も自由に行なわさず、刑罰規定も別なものを適用させ、部落ごとに石高を設けて共同責任を負わせたこと等が団体を成立させる重要な力をなしたことは間違いないところと考えられる。しかしながら、これら古い時代の具体的正義と現代の具体的正義とが異なるからといって、長い間に日本中に発生したそれぞれ部落の財産を持つことまで不正義にするものでもなければ、被告らが入会権を有すること、原告らが有しないことを不正義にするものでもない。

(3) 本件山林についての入会権者は、井上二一〇戸、幸高四九戸、九反田四〇戸、中島八五戸と古くから称されて来た。この戸数は古い時代には実在の戸数であったと推定される。現に幸高村について寛文六年に行なわれた検地帳には幸高村戸数四九戸人数二一九人、男一〇九人、女一一〇人なる記載が残っているところから、この時代の権利者の数を表示しているものと思われる。その後は戸数の増減にかかわらず、各部落間の権利義務の率を表す数字として扱われてきたものである。本件山林は明治初年入会権の存在する証明がないとして官有地に編入されたが、後日、この証拠が現われたため、明治一六年民有地に組替えがなされた。そして同年、本件山林の権利者である一一か村が集まり協議し、税金の負担割合を定めるに至った。この税金の負担割合は村割と戸数割と石高によって負担率を定め分担したものである。ところで、右協議によっては山かせぎの制限をせず、盆花の採取に制限をし、泊り込みで毛上の取得を許さなかったほかは、力作にまかせたものである。このように山かせぎにほとんど制限がなく、また、広大な山林につき最も管理の行きにくい数村入会の形式を取ったため、山は荒廃し、しかも、日野村の高梨部落以外の入会権のない部落の住民や、他村の入会権のない部落の住民までが入山するようになり、地元の仁礼、仙仁の入会権者達は、他村の住民の山かせぎに妨害を加えるようになった。原告らの中に入会した者があるとすれば、右のような管理の不充分な状況に乗じて、無断入山し山かせぎしたものと考えられる。このような地元村の妨害を排除するため、井上村四部落の入会権者は明治四三年ごろ、長野地方裁判所に対し、上八丁区、仁礼区、栃倉区、仙仁区、井上区、幸高区、中島区、九反田区の各区を被告として、入会権確認妨害排除の訴を提起するに至った。

しかして、この訴を提起するにあたり、明治三九年二月五日の大審院判決により、入会権を主張する訴訟は必要的共同訴訟であると判示されていることが影響してか、旧い時代には実在していたが、当時はすでに税金の負担率を示す数字と化していた前記井上二一〇戸、幸高四九戸、中島八五戸、九反田四〇戸なる数字に合わせ、各部落の原告の数を定めるに至った。ところで、幸高においては四九戸集めることができたが、井上において訴訟をきらう者がいて、一八名不足したため、原告の先代、先々代等の名を借り、数字を合わせたのである。したがって、前記訴訟において原告の先代、先々代が加わっているのは権利があったからではなく、井上部落において戸数をそろえるための便宜上のものであった。また、人数の合った幸高四九戸の中には、大字幸高の七三河原に居住した原告の先代、先々代は一名も加わっていないのもその故である。

(4) 右訴訟の後、前記の最も山を荒廃さす形態である数村入会を、管理の充分できる形に分割する指導が県から強力になされ、長期間にわたる協議のすえ、大正一三年三月二七日にようやく分割の意見一致をみるに至った。そして大正一四年一二月八日入会山の分割がなされた。

ところで、本件山林の分割は県の指導によるものであり、当初県は、保安林に指定することにより山の荒廃を防ごうとしたが、保安林の指定をしても、これが守られなかったり、一部ずつ保安林の解除を求めて乱伐したり、更に保安林に火をつけ、指定された木を燃して入会したりして、全くその実がなく、そのため明治三八、九年ごろは大洪水が起ったこともあったので、県が分割を強力に推進したものである。その際、分割のため住民の委任状を作成したが、その形式も県の指導によるもので、そのため単に井上四部落のみでなく、仁礼、高梨等他の部落においても全く同文、同形式の委任状が作成されるに至った。ところで、当時の県の職員は入会権の実態につき無理解であっため、行政的な面からの村有と解して、できるだけ村民全体の委任状を取らせるに至ったものである。したがって、この委任状に連署したものが、必ずしも権利者であることの証拠にはならない。右分割以後も二睦住民は入山していないし、また、何んの配分も受けずに今日に至っているが、その間五〇年近く、何れからも何んの異議もなく現在に至っている。

(5) 原告らは先祖が百姓ではなく、したがって、入会権者たりえなかった。入会山は本来水田の肥料を供給することに最も重要な効用が認められたものである。またさらに、農馬の飼料を提供し、雑木の成長したものがあれば薪炭の供給源ともなった。したがって、入会山は土地を有し、これを農耕する百姓固有の権利として発展したもので、他の職業の者は武士、医師、商人等身分の如何を問わず入会権者となることはなかった。明治六年大政官布告によれば「拝領地寺地等除地之外村々の地面は素より都て百姓持の地たるべし、然る上は身分違いの面々にて買取り候節は必名代差出し村内之諸役無差支相勤可申事」とあり、これ以前は百姓のみが土地を有していたことを知ることができる。

被告らは古来百姓であった者の子孫である。これに対し、原告らは主として、皮細工等の仕事に従事していたものの子孫であって、明治以前は百姓でなく、また、土地も所有していなかったのである。したがって、本件入会権者でもなかったのである。

さらにこの点につき検討するに、天正一九年(一五九一年)豊臣秀吉が全国の戸口の調査を行ない、士農工商の職業を定め、職業の変転を許さなくなって以来、職業は世襲されて明治に至ったものであり、また、寛永二〇年(一六四三年)田畑の売買が禁じられ、この禁令は明治五年(一八七二年)まで続いたため、被告らの部落住民のみが土地を持ち、かつ百姓であり、原告らの部落住民は土地を持つことなくまた百姓でもなかったのである。

なお、慶長七年八月(一六〇二年)高井郡幸高村におこなわれた検地の際には、「かわらもの又六」、「かわや又六」、「かわや源七郎」、「かわや助五郎」なるものが農地を有していたことが記載されているが、これは前記秀吉の職業の変更の禁令から一〇年を経過したころであり、未だこの禁令が全国に行なわれていなかったと推定されるが、その後六五年を経過した寛文六年(一六六七年)天羽七右ヱ門が同村に行なった検地にあたっては、この種の記載がみられず、おそらく、このころには前記職業の分別、土地所有の制限、売買の制限が制度化したものと推定されるのである。

(6) 以上、要するに、原告らは入会権取得の要件として、井上村大字井上、同幸高、同九反田、同中島地籍に引き続き満三年以上居住し、右部落のいずれかに所属し、世帯主であることが権利取得の要件であるとし、相続、分家、転入等により原告らが世帯主となったことを主張するものであるが、前述のところから、本件入会権は、井上部落、幸高部落、九反田部落、中島部落の部落有入会権であったこと、原告らは右四部落、特に井上、幸高部落には属していなかったこと、井上、幸高等の四部落は百姓部落であり、原告らの部落は百姓部落でなく、入会権は百姓の権利であり、したがって、原告らには本件各土地の入会権がないのである。

第四  被告山岸勇および被告一色利雄の主張

原告らの請求原因事実は全部認める。

第五  被告小林富男は、適式の呼出を受けながら、本件口頭弁論期日に出頭しないし、答弁書その他の準備書面も提出しない。

第六  証拠関係≪省略≫

理由

第一、緒論

本件における原告の基本的主張は、本件土地は入会集団としての旧井上村大字井上、大字幸高、大字九反田、大字中島各部落(現在の須坂市大字井上、幸高、九反田、中島、以下井上村四部落ともいう。)の共有する入会地であり、原告らはいずれも大字井上、大字幸高両部落の住民として先祖代々生活し、被告らと同じ生活協同体を構成してきたものであって、本件入会地につき、現在被告らと同様入会権を有している(入会団体構成員)、というのであり、被告らのそれは、本件土地の一部はもと井上村四部落の入会地であったが、現在では右入会慣行は廃止もしくは解体しており、他の一部は最初から入会慣行はなく、またかりに、現在入会慣行が認められたとしても、入会権は、単に行政区画上の大字井上、大字幸高に住んでいることをもって認められるものではなく、実在的総合人もしくは経済的協同体としての井上、幸高部落に属した者にはじめて認められるのであって、原告らはその先祖が農民ではなく、被告らとはもともと別な生活協同体を構成していたもので、いまだかつて一度も入会権者であったことはない、というのである。もっとも、被告山岸勇および一色利雄は、原告の主張事実を全部認め、かつ、被告小林富男は、民事訴訟法一四〇条により原告らの主張事実を全部自白したものとみなされるところ、本件訴訟はいわゆる固有必要的共同訴訟であるから、他の被告が原告主張事実を争う本件においては、自白としての効果を生じないことは明らかである。したがって、以下、本件土地につき入会権そのものが成立し、存続しているか、その権利内容はいかに変化しているかを検討したうえで、更に原告らが入会権者(入会団体構成員)であるか否かにつき判断を進めることとする。

第二、本件入会地およびその権利内容

一、入会権の主体は、一定の部落という入会集団(部落のもつ入会権)であると同時に、その構成員(住民のもつ入会権)でもあるが、原告らが本件土地につき入会権を有しているか否かの判断はしばらく置き、まず本件土地につき入会集団としての井上村四部落が入会権を有していたかどうか、現在もその権利が存続しているかにつき検討する。

本件土地中一ないし五の山林を含む約二、七七〇町歩余の山林は江戸時代のころから、旧井上村(現在須坂市)井上、幸高、九反田、中島、福島の五部落、旧仁礼村(現在須坂市)仁礼、仙仁、栃倉の三部落、旧高甫村(現在須坂市)八丁部落、旧日野村(現在須坂市)高梨部落、旧綿内村(現在長野市)綿内部落、以上一一部落の入会山(数村入会)であったが、その後、明治三八年三月一〇日高梨部落が、同三九年一〇月三〇日綿内部落が、同四二年二月二六日福島部落がそれぞれその持分を仁礼、仙仁、栃倉の各部落に譲渡したため、右山林は明治末年には井上村四部落、仁礼村三部落、高甫村一部落、以上八部落の入会山となった。次いで大正一四年右八部落間で全入会山が分割され、本件土地中一ないし五の山林が井上村四部落の入会山(村中入会)になり、昭和四年一二月一日井上村四部落間において、本件土地一ないし五から生ずる立木の売却等による収益分配基準として、全収益の一〇分の三は四部落に等分し、一〇分の七は井上二一〇、幸高四九、九反田四〇、中島八五の比率で各部落に配分するとの協定が成立した。以上の事実はいずれも当事者間に争いがない。

二、≪証拠省略≫を総合すれば、本件土地を含む約二、七七〇町歩余の山林は江戸時代のころからの入会山で、明治初年に地租改正が行われた際、明治政府により一時官有地に編入されたが、その後、関係者が税金を納めていた事実、入会がなされていた事実を証する証拠を提出したことにより、明治一六年民有地に組み替えられたこと、前記大正一四年に入会山が分割されるまでは、各部落の住民(原告らを含むか否かはしばらく置き)は、自由に本件入会山に入って、薪炭、まぐさ、わらび、ぜんまいなどを採取することができたが、分割前は前記八部落の数村入会であったためその管理が適切に行なわれず、ために山林が荒廃し、右入会山から流れ出る鮎川のはん濫により、その最下流に位置する井上村四部落はしばしば洪水の被害を受けたので、大正一四年長野県の指導のもとに、旧来の自由な入会を規制して、治山治水をはかり、かつ、山から収益をあげる方策を講じる目的で、前記八部落間で入会山を分割することとなったこと、その後、右分割の細目について協議や測量を重ねた結果、昭和四年井上村四部落は本件土地一ないし五を取得し、前記入会山分割の趣旨に則り、右土地につき共同して治山治水のため植林事業を営むことにしたうえ、その業務を処理するため各部落から、入会山管理委員が選出され、ここに従来の自由な入会は制限され、いわゆる留山となったこと、右所有権の取得については登記簿上、「受付、昭和六年一二月二六日、原因、同月二四日権利取得、前持主、上高井郡仁礼村大字仁礼ノ内仙仁、同郡同村大字仁礼ノ内仁礼、同郡同村大字栃倉、同郡高甫村大字八町、取得者、上高井郡井上村大字井上、同郡同村大字幸高、同郡同村大字九反田、同郡同村大字中島」との持分移転登記がなされたこと、右四部落は昭和四年一二月一日、前記植林等の共同事業から将来生ずることの予想される収益を分配するため前記分配比率を定めたこと、入会山分割後、管理委員が本件一ないし五の土地の管理に当ったが、昭和八年当時の管理委員であった坂本重雄、小林盛衛、原山千代松、清水初二、山岸住蔵、山岸信太郎、北村佐右衛門、神田善三郎、長岡久治、西澤万吉の一〇名は、右管理権限にもとづき、入会山の木を引き出す等右土地の管理の便に資するため、右土地に隣接もしくは、井上村四部落から右土地に至る通路に当るところの本件土地六ないし二三を、四部落のため、右一〇名の名において、所有者柄沢五一郎、柄沢利一から買い受け、同年九年二九日付で右一〇名の名義で所有権移転登記を経由し、そのころ四部落から本件土地一ないし五と同様にこれを管理する権限を与えられて、以後管理してきたこと、分割後の山の具体的管理は、管理委員会において、県の指導を受け、地元の人夫でもって三年掛りで雑木を伐採し、五年を要して植林をしたが、太平洋戦争中は各部落民に炭や消し炭の分配を行なう程度であり、戦後昭和二五、六年ころには新旧管理委員の間で権限の争いがあって、収益の分配は見送られていたが、昭和四一年七月に至り、旧管理委員を通じ、各部落住民(原告らを除く。)に対し、一人当り一〇〇〇〇円ないし一五〇〇〇円の本件土地の立木売却代金が配分されたこと、本件土地一、二については、町村合併に伴い、昭和三〇年一月一日長野県須坂市井上、幸高、九反田、中島の財産区となり、その旨所有権移転登記がなされたこと、昭和四三年三月、ようやく管理委員間の権限争いも解決し、近代的山林管理を行うため、本件土地の管理運営に関し、井上四部落共有山林管理委員会の臨時総会が開催され、右総会で井上区外三区共有山林管理規程が決議されたが、右規程では、須坂市井上区、幸高区、九反田区、中島区はその所有する本件土地を慣行を尊重して管理運営することとし(第一条)、本件土地は右四区の総有財産であり(第四条)、区とは区民をもって構成される団体をいい(第五条)、右区民とはそれぞれの該当区に住所を有する者であって、区の義務を満三ヶ年以上果した世帯主で有権者名簿に記載された者とし(第六条)、区民にして当該区以外に移動転出したときは転出の期日を以って区民の資格を失う(第七条)、本件土地を管理運営するため管理委員会を設け(第三条)、管理委員会は、井上区四名、幸高区、九反田区、中島区各二名で構成され、各委員は各区の区民によって選出される(第一〇条)、管理委員会は管理規程と総会の議決にしたがい土地の管理、その毛上の管理処分の権限を有し(第一一条)、管理委員会は事業として、本件土地の合理的な管理運営、立木の売却に関する事項、立木伐採および跡地に対する計画植林の実施、県行造林および公社造林施行に関する事項、観光開発に関する施策等を行なう(第一三条)、各区の分収率は、井上区四五・七八パーセント、幸高区一六・四三パーセント、九反田区一四・八〇パーセント、中島区二二・九九パーセントとする(第二四条)等の定めがなされ、以後、右規程にもとづいて、本件土地の管理運営がなされ今日に至っていること、以上の事実を認めることができる。

三、以上の事実関係にもとづいて、本件土地が入会の目的であるか、その権利内容はいかなるものかについて判断する。

入会権については、わが民法中には二箇条しか規定がなく(二六三条、二九四条)、しかもその規定する内容は、いずれも「各地方ノ慣習ニ従フ」という、包括的なものであるが、一般的な意義として、入会権とは、本来、一定地域の住民が、その資格において、一定の山林原野等で雑草、まぐさ、薪炭用雑木、下枝等の採取を共同してすることの慣習上の権利であるということができる。そして、入会権にもとづく利用態様についてみるに、その典型的利用形態は、入会地全体の上に地域住民すべてが平等に一定の産物を採取して、自己の個人所有とするものであって、このような共同利用形態は、自然経済的な農村経済機構を基礎とした時代に最も適した入会権行使の姿であったということができ、その意味で、これを入会権の古典的利用形態と呼ぶことができる。分割前の本件土地一ないし五の利用形態が、まさに、右のような古典的共同利用形態であったことは前記事実より明らかである。

しかし、明治以後の貨幣経済の発展が農村にも浸透するにつれ、入会地の収益も、雑草、雑木、薪炭等から、立木からの収益へとその重点が移行するに及び、これまでの部落住民が自由に山に入って産物を採取するという古典的共同利用形態では、立木生成の実効があがらないばかりでなく、各自が争って山入りしたり、めいめい勝手に刈取りをして、裸山にしてしまうなど、入会山の荒廃を招くことは必定であり、かたがた部落住民各自の使用収益権の実質的平等も確保できない事態となったため、右古典的共同利用形態は、次第に、(イ)入会団体が全体として入会地の産物を取得する団体直轄利用形態、すなわち、部落住民を自由に山入りできなくし(留山ともいう)、入会団体が、植林造林等の事業を行ない、その結果たる産物(したがって、その売却代金)を団体が取得し、入会団体の共同の利益のため(例えば、道路の開設、補修、学校施設のためなど)に用いたり、各入会権者に分配したりするもの(この形態においては、入会地の利用行為およびその結果たる産物の取得が入会権者個人の自由に任ねられておらず、また、入会権者個人が個別的にこれをすることを禁止されているところに特色がある。)、(ロ)入会山に地割りをして、個々の入会権者に割りあて、個別的独占的利用収益を許す個人分割利用形態で、一般に「割山」「分け地」と呼ばれているもの、(ハ)入会団体が、個々の入会権者もしくは入会権者でない者と契約を結んで入会地の利用を許すところの契約利用形態等に変化せざるを得なかったことは、今日一般に認められた事実である。

ところで、本件入会山利用の形態が、大正一四年分割後は、右(イ)の団体直轄利用形態になったことは、先に認定した事実により明らかである。

この点に関し、被告らは、特に昭和四三年三月にできた本件土地に関する井上区外三区共有山林規程により、従来の入会慣行は解体もしくは消滅し、近代的管理形態たる所有権ないし共有権行使に転化したと解すべき旨主張するが、入会権は「各地方ノ慣習ニ従フ」ものであり、その慣習が明治以後の経済的社会的変化の中で徐々に変化するに伴い、入会権の権利内容、特にその収益形態が変化するものと理解すべき(権利内容の動態的把握)ものであるから、入会権の用益内容を自給的古典的な採取行為に限定し、右用益内容が変化したことをもって、直ちに入会権が喪失もしくは解体したと速断することはできない。

特に、入会権が解体し共有権に変化したかどうかを判断する場合は、当該山林の利用について、単なる共有関係上の制限と異なる部落団体の統制が存するか否か、具体的には部落民たる資格の得喪が結びついているか、使用収益権の譲渡が自由にできるか、権利を有する者が一世帯一人に限られないか、山林の管理機構に部落の意思が反映されているかなどの諸事情を検討すべきである。

そうとすれば、先に認定した事実によれば、前記山林規程にも定められているとおり、本件土地については部落民たる資格の得喪と使用収益権の得喪が結びつき、使用収益権の譲渡は許されず、権利者は一世帯一人に限られ、山林の管理は部落民の選出する管理委員によって構成される委員会によって行なわれるのであって、右いずれの諸点においても部落の統制機能は否定されているものではないから、単に入会地の利用形態が古典的共同利用から前記団体直轄利用に移行したことをもって、入会権の性格を失ったということはできないし、また、入会権が解体し共有権になったということもできない。

なお、昭和八年に、当時の管理委員らが、柄沢五一郎らから買い受けた本件土地六ないし二三については、本件土地一ないし五の入会山管理(その利用に資する。)のために買い受けたものであり、その後今日まで、右委員会によって直接の管理統制のもとに使用されてきたことが推認されるのであるから、右土地についても入会権が成立し存続しているものというべきである。

更に、本件土地一、二については、昭和三〇年一月一日承継を原因とする長野県須坂市井上、幸高、九反田、中島の財産区名義に所有権移転登記が経由されているが、右の事実をもって、右土地が入会権の対象地でなくなったものと解することはできない。かえって、≪証拠省略≫によれば、右土地が従来から大字井上、同幸高、同九反田、同中島の所有する山林であり、かつ、その土地に入会っていたがゆえに、右部落が、これらの権利を存続させ、同時に、時の政府の町村合併促進策と調和させるため、須坂市との合併に際し、市の財産ではなく右財産区の名義としたものであることが認められる。以上述べたとおり、本件山林が、入会権の対象でないとの被告らの主張は採用の限りでない。

第三入会権者

一、先にのべたように、入会権の主体は、入会集団たる村(部落)であると同時に、個々の住民は右入会集団の構成員になることによって入会権者となるのであるが、以下、本件入会地についての右入会集団およびその構成員(入会権者)について判断する。

≪証拠省略≫に、前記認定事実、当事者間に争いのない事実、後記明らかに争わないので自白したとみなす事実を総合すると、次のような事実が認められる。

(一)  (本件土地の利用関係)

大正一四年に入会山の分割が行なわれる以前においては、原告ら、被告らを問わず、その腕、能力に応じて本件入会山に入り、たき木、わらび、ぜんまい、うど、長いも、盆花などを自由に採ることができ、ただ、山で泊ること、および取り置きしておくことが禁止され、また野火に注意し、木の芽のふく八十八夜前は山に入らないという制限があったにすぎない。弓田軍太郎の父弓田新作のように、本件入会山よりたき木を切って、須坂の町へ売りに出て、一年を通し(冬期を除く。)生活の糧にしていた者もあったが、一般には、農閑期を利用して、毎年春二〇日間ほど山で、一年分のたき木を取る程度であった。本件入会山は、井上村四部落から約八キロメートルも離れており、山に入る場合は朝早くから、近所隣り同志三三五五集まり、荷車を引いて出掛けたが、仁礼の入口の通称「おどり坂」で一休みするのが常で、その先は南へ更に四キロメートルばかり登った「小八丁」やその北側の山などに入ったが、場所については全く自由であった。長く山に入った家と、そうでない家とがあったが、それは人手の差によるもので、田畑の大作りの家はあまり行かず、小作りの家が良く山へ行った。原告ら二睦の者も、井上、幸高の者と一緒に山に入ったが、右入会山分割後は、いわゆる「留山」となり、自由に山に入ることができなくなり、管理委員会が管理するところとなり、特に山に入る者には、「入会権之証」という証明書が区長より発布されたこともあった。右分割の経過については、大正一三年三月二七日長野県の指導により、それまでの自由な入会を規制し治山治水をはかるため入会山を分割する旨の協定が成立し、井上村四部落は本件一ないし五の土地を取得することになったが、右分割協定には、別紙入会権者目録(6)記載のとおり原告らもしくはその先祖が参加しており、右四部落は本件入会地につき、右分割の趣旨に従い、共同して治山治水のため植林事業を営むことになったが、同年一二月一日、右四部落は右共同事業から将来生ずることの予想される収益を分配する比率を定める目的で持分協定をすることになり、右比率を定めるにあたっては、明治初年地租改正の際の四部落の戸数で、その後実際の戸数の変動とは関係なく四部落の公租公課その他の費用の分担基準として使用されてきた井上部落二一〇戸、幸高部落四九戸、九反田部落四〇戸、中島部落八五戸という戸数をそのまま収益分配の基準として踏襲することとし、右協定は本件土地から生ずる全収益の一〇分の三は四部落に等分し、一〇分の七は前記戸数に比例して各部落に分配するというものであった。その後は先に認定したとおり、管理委員により植林が行なわれたりしたが、太平洋戦争中に炭や消し炭の配分があった程度で、これという収益分配はなかったところ、昭和四一年七月に各部落住民に一人当り一〇〇〇〇円ないし一五〇〇〇円の立木代金の配分があったが、原告らには、右炭、分配金とも支給されなかった。昭和四三年三月には、新らしく山林管理規程が定められたが、原告らは右決議に参加が許されず、本件山林は、井上区幸高区九反田区中島区の共有山林とされ、二睦区たる原告らは本件土地上に何んらの権利がないものと規程された。

(二)  (本件土地の登記簿関係)

本件土地一ないし五について、土地登記簿上、取得原因、昭和六年一二月二四日権利取得として、取得者上高井郡井上村大字井上、大字幸高、大字九反田、大字中島名義に登記され、更に本件土地一、二については、取得原因、昭和四年一二月一六日寄附採納として、取得者上高井郡井上村名義の登記があり、次いで右一、二の土地は取得原因、昭和三〇年一月一日承継、取得者長野県須坂市井上、幸高、九反田、中島財産区の登記が経由されており、本件土地六ないし二三については、坂本重雄外九名の共同名義の登記がなされている。なお、昭和四三年三月に制定された井上区外三区共有山林管理規程では、新らしく、本件土地は、井上区、幸高区、九反田区、中島区の総有財産である旨規程がなされた。

(三)  (原告らの生活関係)

集落形態――原告らおよびその先祖は、主として大字井上、大字幸高地籍のうち、野庄および七三河原と呼ばれるところに居住していたが、大正一一年原告らの関係者の弓田若太郎の家が燃え、その消防に苦労したところから、消防用ポンプを購入することになり、右ポンプの名を二睦と名づけたことが契機となって野庄、七三河原に住む原告らによって二睦という新しい区が作られた。右二睦区は、人為的に作られたため、その居住分布が必ずしも一体をなしておらず、井上、幸高とも地理的には画然と区別されているのではなく、むしろこん然一体をなしているとみられる状況であり、原告ら二睦の住民中には、井上区、幸高区の地籍内に居住するものもいる。

水――本件入会山に源を発する宇原川と仙仁川とは瀬脇附近で合流して鮎川となり、更に下って栃倉を経て、須坂市八町、井上、幸高、九反田を通って百々川に合流し、千曲川に注いでいる。鮎川は百々川と合流する手前で扇状地を作り、特に九反田では鮎川が天井川となっており、右扇状地に二睦、井上、幸高部落が集落を形成し、その扇端には地下水がゆう出し、戦後水道が敷設されるまでは、二睦の東方一・五キロメートルにある鮎川橋付近から取り入れた鮎川の水と右地下水を飲料水としていたし、農業用水としても使用していた。現在においても、二睦区の弓田進、佐々木吉之助、三浦三郎方の庭先には地下水がゆう出している。また、鮎川のはん濫を防ぐため、鮎川とほぼ平行して三本のせき堤が構築されている。水に関しては、井上、幸高地籍に住む、住民はすべて同一の恩恵に浴している状況である。

生業――原告らおよびその先祖は一部ばくろう、家畜商を営むものもあったが、そのほとんどは百姓で、戦前は小作、戦後はいわゆる三反百姓が多く、古くから農村の行事としての春秋二回の「せぎ払い」も行なってきたし、原告らと被告らの田の位置が画然と区別されていることもなく、現在原告らのうち農業に従事するものは、被告らと共に河東土地改良区に属している。

祭――二睦の住民は、井上、幸高の方を「本村」と呼んでいたが、神社の関係では、井上の本村には小坂神社、野庄には白山神社、幸高の本村には越知神社、七三河原には秋葉神社がそれぞれ祭られており、小坂神社の神主が、白山神社へ春秋の祭には出張してきたり、原告らのうち大字井上に住む者は、小坂神社の祭礼に参加して、御神酒を分けてもらったりしていた。

墓地――大字井上に住む原告、被告らの墓は、浄運寺の同一区画地に、大字幸高に住む原告被告らの墓は鮎川堤防附近の同一区画地にそれぞれ存し、原告らのため別の墓地が存するというわけではない。

訴訟関係――本件入会山に対する関係では里村にあたる井上村四部落と、山村にあたる仁礼村、高甫村との間では入会につき紛争がたえず、原告、被告らが、本件入会山に入るに際し、荷車に石を落されたり、かじ棒が切られたりするなどの妨害がしばしば行なわれたことから、明治四四年に井上村四部落住民三八四名が原告となって、仁礼、高甫両村を被告に長野地方裁判所に対し、入会権確認ならびに妨害排除の訴えを提起したが、その際、別紙入会権者目録(5)記載の原告ら先代も訴訟に参加した。右三八四名の数字は前記認定のとおり、明治初年以来公租公課その他の費用を井上村四部落に割り当てる基準として、実際の戸数の変動とは無関係に踏襲されてきたもので、右訴訟にあたっても、住民の中には訴訟をきらう者も出たが、結局右三八四名の印をそろえたものであった。右訴訟は、一審において、井上村四部落が勝訴したが、控訴審において、浄運寺の住職小林徳雄が仲に入り、今までの状態では山が荒廃するので、これを機会に各村の持分を決めて分割し、今後は積極的に山の管理を進めることで、和解が成立し、訴訟は取下げになった。

入会権取得の要件――本件入会権取得の要件として、慣習上、(1)、井上村大字井上、大字幸高、大字九反田、大字中島地籍に引き続き満三年以上居住し、右地籍内のいずれかの部落に所属していること、(2)、世帯主として独立した一個の世帯を代表するものであること、(3)、前記部落より他に転出した時は入会権を失うこと、とされていた。原告らが世帯主となった原因およびその時期は、別紙入会権者目録(1)(2)(3)記載のとおり(被告らにおいて明らかに争わないので自白したものとみなす)であった。

以上の事実認定については、その一部に反する≪証拠省略≫は採用しない。他に右認定を覆えすに足る証拠はない。

二、以上の事実関係に基づいて、原告らが本件土地の入会権者であるか否かについて検討する。

徳川時代から明治初年に至るまでのわが国の村が、一方において、租税徴収等のごとき、政治的支配を支える統治的な行政組織としての側面を有すると同時に、他方において農民共同の財産たる林野、用水等を支配し、農民の私的農業、私的生活を可能ならしめる目的のための私的自治団体であるという二重の性格を有し、したがって、その時代においては、経済的な生活協同体たる村の地域と、形式的一村を構成すべき村の地域とは一致するのが原則であった。ところが、明治二一年以降、町村制が施行されてから、右の二重組織は次第に消滅し、村は、私法集団、例えば入会主体としての「村」と、公法集団すなわち、地方行政の組織単位ないし地方公共団体としての「村」とに分化するに至った。行政単位としての村と、生活協同体としての村とは理論上も、実際上も区別されるべきであるが、前者はその行政目的に則して、後者とは無関係に抽象的公法人化する傾向がある反面、これに反し後者は、相対的に、総合的実在人としての機能を益々発揮する傾向にあるといわれる。したがって、慣習に基礎を置く入会権の主体たる村を究明するにあたっては、右行政単位としての村にとらわれることなく、そこに住む住民の生活の実態をみきわめる必要がある。

しからば、行政単位としての村とかかわりなく「一つの生活協同体としての村」もしくは「入会を目的とする総合的実在人としての村」を構成しているところの実質的基礎は何かといえば、それは住民の協同感、協同の生活であり、具体的には、入会と水利の利益が最も重要である。入会権についていえば、行政単位としての村からみれば、同一村の村民であっても、当該の生活協同体内部に包摂されることなき者は、入会権者たる資格がなく、逆に、行政単位としては別個の村に属していても、当該の生活協同体に参加を許された者は入会権利者であるというべきである。

先に認定した本件土地の利用関係、登記簿関係、原告らの生活関係からみるならば、まさに、井上村大字井上、大字幸高、大字九反田、大字中島は、前記一つの井上村という生活協同体を構成しているものというべきであり、これら四部落が本件入会山の関係での入会集団であり原告らが、被告らとともに右生活協同体を構成してきたものと認めるのが相当であり、したがって、原告らは本件入会山の入会権者であるというべきである。

被告らは、二睦住民は、元来農民でなく、被告らとは同一の生活協同体を構成していなかったと主張するが、右事実を認めるに足りる証拠はないし、前記認定の事実よりこれを採用することは到底できない。また、被告らは、昭和四三年に定めた井上区ほか三区共有山林管理規程において、入会集団は、井上区、幸高区、九反田区、中島区と定められ、原告らの二睦区は入っていないと主張するが、これも前記認定事実に照らし、右規程のみをもって、大字井上、大字幸高の一部たる二睦区を本件入会集団から排除する理由とはなしえないのみならず、≪証拠省略≫によれば、右制定のいきさつは単に、今まで大字井上、大字幸高と呼ばれていたものを、右規程で区と置き変えたのみで、特に理由はないと述べていることからも、被告らの主張は採用の限りでない。

次に、被告らは、前記訴訟に参加したのは、旧来から井上村では三八四名の人数をそろえる必要があったところから、訴訟に際して原告らの先祖の一部に判を借り受けたにすぎず、右事実をもって原告もしくはその先祖が入会権者であったとの証拠とはならない旨主張する。右人数は実体にかかわりなく、その後も四部落持分協定書作成の時も使用され、右訴訟においても人数合わせのため原告らの判が押印されたことは先に認定したとおりであるが、そうであるからといって、その押印の有無をもって、単に、印を押した者が入会権者であり、押さなかった者が入会権者でないと断ずることはできないのであるから、被告らの右主張はにわかに採用できない。

また、被告らは、入会権取得の資格条件として、入会山に関する区費もしくは協議費を三年以上完全に納めることが必要であると主張する。昭和四三年制定の井上区外三区共有山林管理規程には、その趣旨が定められており、≪証拠省略≫はこれに副う供述をしているが、一方、≪証拠省略≫によると、従前右の資格条件につき書面をもって記載されたものはなく、右規程ではじめてこの点を明確にしたこと、従来、入会山に関する諸費用、すなわち、山の管理費用、道路の補修費用等は、本件入会山の立木代金をもってこれにあてられてきたし、また、住民中には、その費用を負担できない者もいたため右のような売却代金をあてる必要性もあったこと、原告らに対し、山の管理委員より費用を支払うよう催告したことは一度もなく、原告らが、その属する井上区、幸高区より、かかる費用の徴収につき連絡を受けたこともなかったことが認められるのであるから、被告ら主張のような資格条件またはこれに類する条件を具備することは、入会権の取得を判断するにつき相当有力な事がらであるとはいえるとしても、これがなければ、かつて入会権は取得しえなかったものと断ずることはできず、殊に、右認定のような事情のもとにおいては、これをもって、原告らの入会権取得を否定する根拠とはなしえないものといわなければならない。さらに、被告らが昭和四三年に、右のような管理規程を定めたことは、これによって、既に取得された原告らの権利が消滅することにならないことはいうまでもない。したがって、被告らの右主張も採用できない。

第四、結論

以上認定したとおり、原告らは、旧井上村大字井上、大字幸高(現在須坂市大字井上、大字幸高)の住民として、被告らと同様本件土地につき入会権を有するものであるから、原告らの本訴請求は理由があるものとして、これを認容し、訴訟費用の負担については民事訴訟法第八九条、第九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 野本三千雄 裁判官 荒木恒平 村上光鵄)

<以下省略>

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